壽 福 院
加賀前田家三代藩主 前田利常の母
  「壽福院」の誕生地は高木町です・・・


  壽 福 院



高木町は、加賀藩前田家三代藩主 前田利常の生母『ちよ』(千代保・幾世・壽福院)の生誕地。

『ちよ』は、高木村の上木新兵衛の娘として元亀元年(1570)に生まれた。
山崎軍功記(金沢市立図書館・加越能文庫)によれば、『ちよ』の父は朝倉義景に仕えた越前の郷士で、母は山崎右京という朝倉配下の士で越前新庄(越前市中新庄付近)に住していた者の娘である。

千代が3歳の頃 朝倉氏が滅亡し、府中城にいる利家のもと(正室・まつの侍女)に行ったのは7歳の頃であった。


前田利家が府中城主の時の上木新兵衛の娘たちとの出合いは、「浅井永記録」には次のように書かれている。
「天正5年(1577)前田利家が領地巡覧の際、高木村の上木新兵衛方にて昼休みをし、新兵衛の馬を見て所望した。新兵衛は、早速献上する旨を申し出たので、利家は新兵衛が納める租税を免除することにし、外に願い事がないかと尋ねた。新兵衛は、娘二人を召使ってほしいと願い、姉妹は府中城に奉公した。」

文禄の役において、名護屋の陣中にあった利常の身の回りの世話を務めた際に見染められ、側室となり 利常の生母となった。(文禄2年11月25日
「三壺聞書」や「往々雑記」などには、『ちよ』はかなりの美女(美女無双)であったと書かれている。

東丸殿と呼ばれていた『ちよ』が『壽福院』と呼ばれるのは、慶長4年の利家の死後である。

慶長19年5月、高岡で2代藩主利長が没すると、慶長5年から人質として15年間江戸にいた利家の妻芳春院・まつは帰国を許され、代わりに『壽福院』が人質として江戸へ行った

寛永8年(1631)3月6日、江戸神田邸にて62歳で没した。
遺骸は池上本門寺に葬られ、位牌は金沢小立野の経王寺に納めた。

法華信仰の厚かった壽福院は、
能登妙成寺の整備に尽力し、慶長19年に本堂、元和4年に五重塔、元和9年に楼門、寛永元年に祖師堂など多くの建造物を山上善右衛門が棟梁となって建立した。

兄の『実成院日淳上人』は、武生 経王寺を再興開山した後金沢に移り、金沢 経王寺を開基、妙成寺14世となり、妹の八重は利家の命に依り、府中の豪商浅井新十郎治政に嫁いだ。

上木新兵衛の旧屋敷といい伝える場所が、高木町に残っている。
新兵衛家は江戸時代に加賀の金沢に移り、明治初期に富山に移転をした。


※ 浅井永記録によれば「ちよ」は「幾世」としている。
「天正5年、利家公村国筋ヲ御順覧ノ節、御先案内ヲ浅井茂左衛門相勤メ、高木村上木新兵衛方ヘ御昼休ニ御着遊バサレ候節、(中略)新兵衛相願候ハ、私娘弐人持仕リ候間、御召シツカエ下サレ候様願ニ付、両人共御召仕遊バサレ、姉「幾世」女ハ中納言利常公ノ御母堂也。ノチ壽福院ト称ス。寛永八年三月六日能州妙成寺ニテ葬ル。妹「八重」ハ利家公ノ命ニヨリ、後ニ浅井新十郎治政ノ妻トナル。(元漢文」)


壽福院生誕之地碑
                                       
(八幡神社北側に平成14年建立)


高木町散策/壽福院誕生之地碑 

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