ぶらりぶらり
ご一緒に、高木町を散策しましょう

順次、気ままに散策します・・・

 名所旧跡、碑 ・・・
の見 軍人墓地 ふ け ふけ運動公園、大清水(2) 七つ池
お石塔 榎木塚 女郎三昧 鼻欠け地蔵 六地蔵 壽福院碑 酒井公壽碑
殉国碑 二宮尊徳像 大樋 欅の大木

 寺院、神社 ・・・
泉久寺 信行寺 観音堂 八幡神社 稲荷神社 天神社跡

 生活道路、路地、農道 ・・・ ※ 道の呼び方は 正しくないかも・・・
上手の道 下手の道 中手の道 東道 中道 西道 国道八号
中新庄瓜生線 戸谷片谷線 路地、細道

 川、用水 ・・・
横江 大 川 湯の口川 穴田川 水路、用水

参考:ふるさと高木、ふるさと国高、国高村是武生市史、たけふ歴史探訪、松ヶ鼻用水沿革史、武生盆地の歴史



 名所旧跡、碑 ・・・

火の見櫓(ひのみやぐら、警鐘塔)
高木町の南西、信行寺南に建っている。
初めは木製であったとのことだが、現在の鉄製櫓は、昭和3年10月に作り変えられたものである。
以前は、「火の見櫓」の下の道が武生・村国方面からの主要道であったため、学校帰りの子どもたちがよく登っていた。
その上部には半鐘が設けられており、町内で火災が発生した時には、警鐘を鳴らし町人に火災の発生を知らせる役割を担っていた。
現在は、その高さを利用して消防団で使用したホースの乾燥などに使われている。
 
町のシンボルタワー 『火の見櫓』 




軍人墓地
高木町の南西、信行寺の西側に9基の英霊が東を向いて建っている。
墓碑によると、前の2基は日露戦争(旅順戦囲戦・龍眼北方面保)で亡くなった方であり、後の7基は支那事変以後(上海事変・日支事変)で亡くなった方々である。
其々明治20年(笏谷石)と昭和13年(御影石)に建てられたものだが、手前の1基は風化が激しかったため、近年新しく再建された。

墓地の前方には梅の老木がある。村の入り口にあるこの紅梅は、昔より人々の眼を楽しませ、春の訪れを知らせてくれている。
        




ふけ
宝暦5年(1755)、小浜藩主 酒井忠用が、当時小浜藩領であった高木村のために、南端にあった湧水池を中心に、2ヶ月の歳月と金5百両を費やして面積2町歩の貯水池を造ったのが、「ふけ」の始まりである。その西には、掘り出した土砂でできた『二丁がら』と呼ばれた竹藪があった。

ここから流れる清水は集落内を縦横に流れる水路に流れ、生活用水として使われていたが、平成10年に「ふけ運動公園」として生まれ変わった。




大清水(おしょうず、壺清水)
48日間まったく雨が降らなかった大正13年に、町民が昼夜掘り続けてできた清水が「大清水」である。

昭和の時代、夏になると町内の子供はこの「大清水」で初めて飛び込みや素潜りを覚え、横の不動尊に水をかけ泳いでいる姿がよく見られた。

現在、「大清水」は新しく建て替えられ、町内の揚水施設の1つとなっている。




 ふけ運動公園、大清水(現在)
ふけ運動公園 大清水 不動尊




七つ池
七つ池は、赤川(穴田川)上流の高木地籍境にある。

江戸時代に小浜藩領であった高木村が、農業用水を確保するため築造した湧水地の中の一つである。(村にはこの他にも19ヵ所の溜め池があった)




現在のお石塔 以前のお石塔 お石塔(おせきとう)題目塔
皆に「お石塔」と呼ばれている題目塔は集落の西北入口にある。

お石塔は、天保4年7月に泉久寺檀家の若講中が建立したもので、左面に『天下泰平 五穀豊穣』と祈願されている。
当時は天保の大飢饉であり、死者の供養と地域の平安を祈るため町内の入り口近くに建てたものと思われる。
平成2年、国道開通に伴い現在地に移転した。

天保飢饉供養の題目塔は、旧北陸道の府中(武生市街地)入口にあたる上市村(南1丁目)及び北府村(北府2丁目)などにもある。




現在の榎木塚
以前の榎木塚
榎木塚(えのきつか)
榎木塚は、泉久寺西側(館之内)の倉庫の西にある、大きな榎が生い茂っている塚(土を盛った場所)である。
現在は榎木塚の東南北を建物が囲み見えにくいが、以前は田の中の島のように四方から見えていたと云う。

榎木塚の榎の木を切ると原因不明の熱病になるとの言い伝えがある。
根元には風化した小さなお墓がある。

秋には、子どもたち赤く熟した榎の実を採っている姿がよくみられた。
榎の実は甘みがあり、干し柿に似た味がするらしい。

平成27年7月、大木が倒れ周辺の建物や人に危害を与える恐れのある状態となったため、伐採された。




女郎三昧(じょろうさんまい)
女郎三昧は、高木町の北東側にあり、中世時代より新庄地区に通じる古街道沿いにある。

この女郎三昧には、江戸時代の末頃、恋仲となり身請けをされた府中の遊女の悲しい話が伝わっている。   
詳細は、民話・伝承/女郎三昧 にて紹介 




鼻欠け地蔵
鼻欠け地蔵のお堂は、高木町の東南にあり、塚町に通じる街道沿いにある。

子供のいたずらで地蔵さんの鼻が欠けた話が伝えられている
詳細は、民話・伝承/鼻欠け地蔵 にて紹介 

毎年7月24日には、鼻欠け地蔵前にて地蔵祭りがある。




六地蔵
六地蔵は、高木町の東南、塚町に通じる街道沿いの天台真盛宗墓地入口にある。

六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)の世界を救うお地蔵様は、合掌のほか、それぞれ蓮華、数珠、宝珠、錫杖、香炉などを持たれている。 (向かって左より、香炉・数珠・合掌・蓮華・宝珠・錫杖)




壽福院誕生の碑
加賀三代藩主 前田利常の生母 千代(千代保・幾世・壽福院)は、元亀元年(1570)、上木新兵衛の娘として当地で誕生した。

この碑は、NHK大河ドラマ「利家とまつ」に千代が登場したことにより、平成14年(2002)7月、八幡神社境内の北側に建立された。
(大河ドラマ「利家とまつ」 千代役 : 田畑智子)

詳細は、人物にて紹介 




酒井公壽碑
八幡神社境内の西側の丸く囲まれた石垣の上にある大きな碑が、「伯爵酒井公壽碑」である。

小浜藩領時代の善政への謝恩を表すため、第13代酒井忠道の長寿を祝して、昭和3年に村人が費用を出し合って建立したものである。
右前方の石柱には酒井家の遺徳が刻まれている。

この碑の前の広場で、天神祭りの催し物や秋祭りの踊り、夏朝のラジオ体操などが行われる。




殉国碑
高木町の戦没者の殉国碑は、八幡神社境内の北西側に建っている。

祀られている英霊は、日露戦争、太平洋戦争によって亡くなられた41名の戦没者の方々である。
殉国碑前では、毎年7月の第4日曜日、高木町主催による慰霊祭を遺族参列のもとに挙行している。

※ 国高地区の忠魂碑は、村国山(廬山公園)中腹に建っている。
※ 国高地区仏教会では、区長会・遺族会と共催の
『戦没者追悼会』を、毎年9月に厳修している。
千鳥ケ淵戦没者墓苑
環境省ームページ)

千鳥ケ淵戦没者墓苑(ちどりがふちせんぼつしゃぼえん)
[国立千鳥ケ淵戦没者墓苑/Chidorigafuchi National Cemetery]


先の大戦で海外における戦没軍人及び一般邦人のご遺骨を納めた「無名戦没者の墓」として、昭和34年3月28日に創建された環境省が所管する国民公園。 
墓苑では、宗教・宗派を超えた慰霊行事が随時行なわれている。

カウントダウンタイマー
平和の道を歩み始めてからの時間
(玉音放送:昭和20年8月15日正午より





二宮尊徳像
二宮尊徳像は、八幡神社境内に建っている。

台座は、昭和6年に戦争祈願の意を込めて、日清戦争の戦利品として持ち帰った大砲の弾丸2個が置かれていたものである。(戦時中供出される)

昭和27年5月、その台座上に、足元に『平和紀念』と彫った二宮尊徳像が平和祈願の意を込め寄進された。




大樋(おおひ)/掛樋
昭和20年頃まで、高木村の上(かみ)と下(しも)の2ヶ所で、用水が川を横切る時に掛ける橋である「大樋」が使われていた。
※ 上は『ふけ』北の橋の北側、下は『森の下地籍』にあった大樋は、現在 神社境内入口に置かれている。

大樋は、大きな笏谷石(しゃくだにいし)の角柱うを雨どいのようにくりぬいたもので、長さは4メートルもある。
小浜藩の御普請により作られた。




(けやき)の大木
八幡神社境内北側にあるこの欅は、幹回りが3メートルもある 町民誰もが知る名木である。

以前は 樹冠が扇を開いたように境内を覆っていたが、近年 天災被害予防のため 上部が伐採された。 しかし、現在も夏の緑陰、秋の紅葉、冬の木立と四季を通じて美しい木である。

その姿の美しさは 人々の心の拠りどころとなり、昔から尊ばれてきている。




 寺院、神社 ・・・

泉久寺(せんきゅうじ)
源流山 泉久寺は、廷久2年に創建された日蓮宗の寺院である。

はじめは真言宗の寺院であったが、南北朝時代、妙文僧都の弟子となった瓜生保の弟『源琳(常精院日進上人)』が、『日野川の戦い』で焼失した泉久寺を日蓮宗に改宗し復興させた。

現在は、本堂の屋根葺き、諸堂の修復、前庭の改修などが行われ、内外ともに一新されている。
詳細は、日蓮宗福井中部宗務所HP・寺院・泉久寺にて紹介 




信行寺(しんぎょうじ)
高木町の南西、武生・村国方面からの旧道に沿って立つ日蓮宗の寺院である。

信行寺は、正保元年に福井に建立され、廃藩置県により 明治2年 高木町に移築、昭和6年に再建された。.

現在は、屋根葺き、外壁の改修などが行われ、内外ともに一新している。
信行寺ホームページ 




観音堂(かんのんどう、おんどさん)
高木町の西南、信行寺の北西にある。
天台真盛宗 引接寺の同行の方々がこのお堂を守リ続けており、堂内には木造十一面観音像が祀られている。

観音堂は、高木町の南を東西に通る道の突き当たりに以前はあり、子供達の登校の集合場所や町民の休息場所として『おんどさん』と呼ばれて親しまれている。

現在のお堂は昭和61年に建てられたもので、周辺には多くの松が美しく配置されている。




八幡神社
祭神は、大穴牟遅命、応神天皇、宇賀魂神、天児屋根命、菅原道真公。
貞享3年(1685)の『越前国之図』(松平文庫)には、何故か『春日明神』と書かれている

14世紀に記された軍記物「太平記」の巻十九「新田義貞 越前の府の城を落とす事」に、『脇屋義助もはや逃れぬものと決心し、高木村の神社を砦として矢数を惜しまず攻めたてた』とある。

夏休みの早朝には、拝殿左の欅の大木の下において 子供や大人たちによるラジオ体操行なわれ、夏や秋の祭りでは、親子連れで楽しむ姿が見れるなど、地縁の場として町民に親しまれ守られている。




稲荷神社(おいなりさん)
お稲荷さんは、泉久寺の南側にある。
宇賀魂神=お稲荷さんを祭神として祀っている。

明治42年に八幡神社に合祀されたことになっているが、五穀豊穣・商売繁昌の神として信仰するものが多いため、ひそかに御神体や社殿をそのままにしてお守りしている。

御神体は、福井市大丹生町の大乗寺の鎮守を勧請したもので、毎月28日には集まって題目の修行をしている。




天神社跡(天神屋敷跡)
明治41年4月に八幡神社に合祀され、現在は空き地となっている。

祭神は菅原道真を祀った無格社天神社で、四十字上屋敷にあり、社殿の大きさは、前口二間、奥行き一間、境内坪数五十二坪であった。




 生活道路、路地、農道 ・・・
 道の呼び方については、「○○さんの前の道」という呼び方をすることが多いと思います。
 高木町では、中央を東西に通る道を境に、川上になる南の方を上(かみ)または上手(かみで)、川下になる北の方を下(しも)または下手(しもで)と呼びます。 また、この中央の道近辺を中手(なかで)と呼びます。

上手(かみで)の道/上(かみ)の道/南の道
高木町の南を、東西に流れる「横江川」に沿っている道である。

昭和の初めころまでは道路の両側に川があったが、改修をして、川は南側、道路は北側となった。昭和30年頃に、川の部分を数十センチ狭くして道路を拡張もしている。 大川の河川改修以前は、大雨になると道に水があふれ出し交通が遮断される道でもあった。

国道8号線開通までは西は「おんどさん」で行き止まりであったが、現在は国道と結ばれ交通量も増えている。




下手(しもで)の道/下(しも)の道/北の道
高木町の北を、東西に通る古い道である。

高木の西の入口には『天下泰平』『五穀豊穣』を祈願したお石塔が建立され、東の入口北には「女郎三昧」がある。

朝倉氏が越前国を支配した頃には、府中から一乗谷へ通じる街道(府中 ⇔ 瓜生高木 新庄 横越 戸の口 一乗谷)でもあった。




中手(なかで)の道
高木の中央を東西に通るみちであり、小字名の「上屋敷」と「中屋敷」間を通る道でもある。
この道を境にして、南を上(かみ)・上手(かみで)、北を下(しも)・下手(しもで)と呼んでいる。

子供が多かった昭和の時代には、何となくこの道を境にして子供の遊び場所が分かれていた。また、昭和56年頃まで簡易水道のポンプ場の塔が道の中程に建っていた。




東道
南より北へ、神社に向かってまっすぐに続く道である。

高木町では、別に葬列が通ってはならぬという道はないが、お宮の前だけは、はばかって遠慮するならわしになっていた[ふるさと国高]
このため、以前は神社前の東道は避け、中の道を通っていた。

夏の暑い日には、道の脇の細い水路に『涼』を見つけることができる道である。




中道(なかみち)/郷蔵道(ごうくら)
「高木町には今も『郷蔵道』といっている道がある。お宮から南の方に通っている道で、今の西道も東道もなかった時代には、高木の本通りであった。しかし、この道のどの辺に、その郷蔵があったのか、それを知っている人は、もう1人もいない」[ふるさと国高]

町外の方々には迷路のように思える道であるが、そぞろ歩きのできる風情ある中道である。
 郷蔵とは、年貢米を上納するまで貯蔵し、また凶作に備えて穀物を保存した共同倉庫です。




西道
高木の西側を、南北に通る道である。

泉久寺西側の西道を挟んだ「館ノ内」(字名)には、江戸時代、小浜藩から出向いてきた武士が住んでいた。

稲寄・長土呂村に行くときの主要道であり、国道開通以前には集団登校や通勤通学の自転車姿がよくみられた。




国道八号線
平成2年に2車線、平成5年に4車線が完成し、供用を開始した。

近年、「コメリパワー」「オートバックス」「アルビス」「ゲンキー」「ヤマダ電機」「洋服の青山」「ニトリ」「ケーズデンキ」「ヒマラヤ」など、多数の量販店が進出してきている。
また、老人ホーム・介護施設・保育所が、高木町の南北に開設された。

「陸の孤島」と呼ばれた高木を急変させた国道である。




中新庄瓜生線市道4902号線
平成25年4月中旬に開通した高木町で一番新しい道である。

高木町の北を東西に通る古道と並行しているため、高木町北側のバイバス道の役割を担っている。また、田植えや稲刈りの季節は、人と農業機械と自動車とが共存する稲田の道でもある。

この道路の開通により、直線道路が高木町を囲むことになり、既存の道の多くが一旦停止となりましたので、注意をしてください




戸谷片谷線
越前市の北を東西に走り、市街地の混雑区間を迂回する高木町の南(商工会議所前)を通る道路である。

平成25年8月に日野川府中大橋東側から国道8号線までの区間が完成した。新国道8号線から旧8号線までのアクセスが飛躍的に向上し、市街地の混雑区間を迂回する役割をもっている。

しかし、国高地区北部の町々の通学路と交差しているため、幼・小・中学生への安全対策が大きな課題となっている道でもある。




 路地/細道/こみち




 川、用水 ・・・

横江川(よこえがわ)
高木町の南、信行寺の北を東西に流れる川である。
川の長さは、約230メートルで、北側は道路となっている。

横江川の水は、四本の水路から町内に入り、枝分かれしながら全町内の家々に水を送り続けている生活用水である。
また最近まで、東から西に流れているこの川の水は、大雨になるといつのまにか西から東へと流れの変わる、上下の解らない不思議な川でもあった。

昭和40年代頃まで、子供たちが魚をとったり、道路に寝転びながら藁で「ババカチ」(カラスガイ)を取って遊んでいた姿がよく見られた。




大川(おおかわ)
高木町の南西から町内を縦断し泉久寺西側を北へ流れる川。
日野川から取水して、村国町や国高町を通過しながら田畑を潤す「龍ヶ淵用水」でもある。

近年は上流の町の宅地化により、急激な雨水の流入による増水が多々あったが、水門・水路の改修により穏やかな川となった。  現在は、道路拡張により川幅は半減し、残りは道路下の暗渠を流れている。

昭和40年代頃まで、学校帰りの子供が川に入り手づかみで鯉を掴んだり、魚を釣ってる人たちをよく見かけた川である。




湯の口川
高木町内の中央を斜めに北へ横断する川で、大川や横江川の水路から枝分かれしながら町内に入った水が合流し、穴田川へと流れる川である

町内をゆっくりと蛇行しながら八幡神社の前を流れる趣のある川であるが、堰板にて川の流れを止め、防火用水としても利用する大切な生活用水でもある。

町内の下水道も整備され、清らかな川となっている。




穴田川/赤川
高木町の東側を北へ流れる川。
穴田川の上流の油戸水門近くにある七つ池は、宝暦5年の大飢饉で築造した遊水地の一つであり、現在も湧水が穴田川に流れている。
ここから流れる水には鉄分が多く含まれ 川岸が赤く染まるため、穴田川を通称「赤川」と呼んでいた。

昭和40年代の頃までは、下着や衣服が赤く染まりながらも 水遊びをする子供達の姿が よくみられた。




 水路/生活用水



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